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元治元年(1864年)7月の山南敬助らの経過と状況

毎月、恒例にしている記事『山南敬助らの経過と状況』です。先月の記事を書いてから一ヶ月。つい先日、書いたような気がしていたのですが・・・この一ヶ月、早かった。
元治元年(1864)6月については、山南敬助について当時の記録などに名前が全く出てこなかったものですから、記事にするモチベーションが低く、6月も終わるギリギリになってしまいました。
これから書く、元治元年(1864)7月については、永倉新八が明治初期に残した記録に山南敬助の名前があるので、モチベーションは高かったのですが、何かと忙しく、そのひとつが歌舞伎鑑賞だったわけなんですけれどね(苦笑)。
と言うことで、7月も明日で終わりなので、今日は、元治元年(1864)7月の山南敬助らの経過と状況です。

7月1日 近藤勇、佐藤彦五郎や小島鹿之助ら多摩の人たちに書簡を送る。

ということが、『新選組日誌 コンパクト版 (上)』(新人物往来社)に書かれてあります。これが2003年2月に発行されていますが、この時点でこの書簡の写本が現存するものの、公表されていません。そのために伏見へ出陣の旨が書かれているとのことですが、詳細はわからないそうです。

7月2日 土方歳三、佐藤彦五郎宛に書簡を送る。

7月3日 近藤勇が養女をもらったという間違った情報が多摩に流れる。

これは養子にした周平のことが間違って伝わったらしい。

7月19日 禁門の変

長州藩が京に出兵、京都守護職の会津容保公が率いる諸藩対長州の戦となる。これに新選組も参加する。
この出来事について、永倉新八が明治の初期に残した記録『浪士文久報国記事』に、山南敬助は病気のために参加できなかったことを書いています。ちなみに総司も。
これは貴重な記録だと思うんです。
この年、表舞台に出た記録がない山南。2月の初めに壬生の屯所を訪れた多摩の富沢政恕によって、「山南ハ病に臥し逢ハス」と記録が残されています。池田屋事変にも参加しなかった山南。しかしその理由は当時の記録にはない。
この永倉の残してくれた記録によって、この間ずっと、山南は表舞台に立てる健康状態ではなかったと考えるのが妥当だと思うのです。

7月21日 天王山に出動する。

7月22日 大坂にて残党狩りを行う。

7月24日 大坂町奉行支配下で市中見廻の任務に就く。

7月27日 禁門の変での大火の報せを佐藤彦五郎は受けて、佐藤鹿之助宅を訪ねる。


小島家の日記に、・・・近藤、土方其他知己之安否・・・と書かれてあります。其他知己とは、総司であったり、井上源三郎であったり、そして山南敬助であったり、また試衛館に出入りしていたメンバーであったり。

7月28日 近藤勇が禁門の変で戦死したという噂が小島鹿之助の耳に入ってくる。

記事を書きながらわかったことがあります。この7月については、山南の名前を残してくれたのは永倉新八だけだと思っていましたが、山南と懇意にしていた小島鹿之助が当時の記録にさりげなく残しているではありませんか。
其他知己ですよ。其他知己を3人挙げるとしたら、沖田総司、井上源三郎、そして山南敬助であることは間違いないだろう。
この出来事は8月に続きます。8月は月末にならないように早めに書くようにしたいと、今のところ思っていますが、どうなるかはわかりません(苦笑)。
by eri-seiran | 2007-07-30 09:24 |  出来事

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