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元治元年(1864年)9月の山南敬助らの経過と状況

つい先日に9月になったと思っていましたが、もう9月も下旬。
早いな~と言うことで、そろそろ恒例の記事を書ける時に書かなければ。

9月4日 近藤勇と土方歳三の書簡が小野路村に日野より届く。

これは8月12日に小島鹿之助ら多摩の人たちが近藤勇ら大幹部5名宛に出した安否を気遣う書簡に対しての返事です。
8月の記事にも書きましたが、改めて大幹部5名とは、近藤勇、土方歳三、山南敬助、沖田総司、井上源三郎です。これは小島政則(小島鹿之助の父親)が安否を気遣う書簡をこの5名に送ったと書いてある日記が残っており、その日記に書かれている名前の順番ですから。総司や源三郎より山南の名前が先にあるのはポイントとなるところですから。
近藤や土方の書簡は残念なことに現存しておりません。写しもありません。
翌日の9月5日に小島鹿之助は日記に、書簡が届いたこと、無事だと書かれてあったこと、詳細は近藤の兄である宮川総兵衛に託してあると書いていたと記してあります。宮川総兵衛は8月20日に京を出立していますが、宮川は近藤が江戸に帰って来て、小島家を訪問の際に同行するまで、小島家を訪れた気配はなし。
山南は病のために静養しており、八月の禁門の変には参加しておりません。宮川はこの時に京に居たわけですから、山南の詳細については知っていたはず。書簡には近藤もみんな無事と書いているわけですが、5人ともみんな元気です。変わりありませんということではなかったわけです。その点については何も触れなかったのだろうか?宮川が伝えることになっていたのだろうか?

9月5日 近藤勇、永倉新八、武田観柳斎、尾形俊太郎、江戸に向けて京を出立。

この江戸行きは、将軍上洛の要請、そのために老中松前伊豆守に会うこと、新人隊士募集などの目的がありました。

9月6日 葛山武八郎が切腹。

おっと出てきたよ、この出来事。前月に永倉新八、原田左之助、斎藤一、島田魁、尾関雅次郎、そして葛山武八郎が近藤勇を批判した建白書を松平容保に提出した事件の責めを負わされて切腹したと云われています。
ただ今、大河ドラマ『新選組!』にてこの出来事を取り上げた第31回、山南敬助@堺雅人が怒りを顕にしている目で土方歳三@山本耕史を見るあの映像が蘇ってきて、マジで胃が痛くなってきた(苦笑)。

史実では切腹であれば、土方歳三一人の判断ではなく、近藤勇とすでに話しができていたんだろうな~と考えています。また葛山武八郎は会津の出身なので、容保公にも迷惑を掛けたということで自刃だったのでは?という説もあります。
どちらにしても山南敬助は静養中であり、葛山の切腹(自刃)について意見できるような状況ではなかっただろう。

9月9日 近藤ら4人が江戸に着。

9月10日 近藤勇ら江戸の会津藩邸に挨拶へ。また小島鹿之助ら多摩の人たちが近藤勇の帰着の報せを聞いて、江戸に向かう。

9月15日 小島鹿之助が近藤と会って、小野路村に帰ってくる。

9月16日 佐久間恪二郎(三浦啓之助)の新選組への入隊について、土方歳三が勝海舟へ書簡にて報告する。

佐久間恪二郎は、信州松代藩出身の思想家・兵学者で、河上彦斎などの攘夷派に暗殺された佐久間象山の息子です。母親は象山の妾だったそうですが、佐久間象山の正妻は勝海舟の妹であり、そのために土方は勝海舟に報告したようです。追伸で近藤が将軍に上洛をお願いするために江戸に赴いていることも書かれており、まだ会ったことがない勝海舟への根回しとも取っていいのではないだろうか。
ちなみに佐久間恪二郎の入隊目的は父親の仇を討ちたいためであり。また佐久間恪二郎が本名ですが、新選組では三浦啓之助と名乗っていました。

9月18日 小野路村の橋本道助らが江戸にいる近藤勇を訪ねる。

9月18日 芹沢鴨・平山五郎の一周忌。これは16日とも考えられる。

この頃、壬生寺に芹沢鴨と平山五郎の共同墓碑を建立。この墓石は現存しておりません。

9月中旬 江戸に滞在中の近藤勇、尾形俊太郎、武田観柳斎は、老中松前伊豆守に会う。

将軍の上洛をお願いしたわけです。また老中松前伊豆守に会えたのは、松前藩出身だった永倉新八の縁故を利用したと云われています。しかし永倉は脱藩した身だったので、この場にはおらず。
このように老中と会うことが江戸に行く目的の一つだったので、学があったと云われている尾形や武田を同行させたのでしょう。山南敬助が元気であれば、同行したかもしれない。

9月中旬 伊東甲子太郎が近藤勇を訪ねる。

先に江戸入りしていた藤堂平助によって、新選組の入隊を決めていた伊東甲子太郎が直接、近藤に入隊を伝えたようです。
これが伊東甲子太郎や藤堂平助のターニングポイントになるとは・・・
また山南敬助の脱走・切腹にも影響を与えたと云われている伊東甲子太郎。史実では、山南敬助のターニングポイントにもなったのだろうか?

9月21日 土方歳三、小島鹿之助宛への書簡と共に、女性からの恋文の束も送る。

すみません。どのように解説すればよいか、わかりませんが、とにかく自慢したかったのね(苦笑)。

9月30日 近藤勇、日野の佐藤彦五郎宅を訪ねる。

近藤は馬にて日野入りしたとのこと。また小島鹿之助ら多摩の人たちも集まったらしい。近藤一人だったようですが、山南敬助がこの江戸行きに同行していたら、一緒に日野入りしただろうな。

                (参考文献:新選組日誌 コンパクト版(上) 新人物往来社)

書きながら思ったことは、京に行ってから初めての帰郷、また池田屋事変・禁門の変における凱旋であることから、多摩の人たちが帰ってきた報せを受けて、すぐに会いに行くなど、多摩の人たちも近藤も嬉しかっただろうな~と思いました。
一方、山南敬助は池田屋事変にも禁門の変にも参加できず、そして未だに新選組の中で働けるような状況でもなく、京での秋をどのような想いで過ごしていたのだろうと思ったり。
そして近藤勇が多摩の人たちと会っていることから、山南敬助の状況についても多摩の人たちには伝わっただろう。だからこそ、その後の11月に長州出兵に備えて作られた行軍録に永倉新八の名前がないことについて、佐藤彦五郎は不審に思って土方に訊ねているものの、江戸にいた藤堂平助、そして山南敬助の名前がないことについては理由がわかっているから訊ねていない。
しかし山南のことについて多摩での記録にも全く出てこないということが、やはり山南の身に起こっていることは近藤や土方初め、多摩の人たちも隠そうとしているように思えてしまうのです。
by eri-seiran | 2007-09-24 20:33 |  出来事

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