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ソースは小島鹿之助による『両雄士伝』

何のソースかと言いますと、山南敬助の享年、及び生年です。
私は山南敬助の生年について、天保4年(1833)天保7年(1836)の二つの説をブログでもホームページでも挙げています。
天保7年(1836)説は、浪士組として、一番組に所属していた早川文太郎によって書かれた『尽忠報国勇士姓名録』の原文があり、そこには名前の他に役職、出身地と年齢が書かれてあり、山南敬助については、28歳と書かれているそうです。
これは数え年であることを考えて逆算すると天保7年(1836)になるわけです。

そして天保4年(1833)説は、山南敬助のプロフィールが載っている書籍にて生年は天保4年(1833)と書かれてあり、さり気なく天保7年説について触れている方もいらっしゃいますが、私のように両方挙げている方は少なく、疑問に感じていました。

と言うのは、私としたことが、天保4年説のソースがわかっていなかったのです。
子母澤寛氏の『新選組始末記』(中公文庫)に、亡くなった時に山南が33歳だったと書かれていて、これも数え年として逆算すると天保4年生まれになり。これがソースなら信憑性はないじゃんと思っていて。

しかし信用できるソースがここにあるではないですか。
そうです、昨日の記事『偽』にて、山南敬助が懇意にしていた小島鹿之助が明治の初めに書いた『両雄士伝』に、記されている山南に関する漢文をわかりやすく訳すると

山南は故あって、近藤に命じられて自尽した。33歳。

本当に私としたことが(汗)。
子母澤寛による33歳のソースもここだったのだろう。

さて小島鹿之助は、山南の生まれた年を覚えていたのだろうか。そこから計算をしたのであろうか。
小島鹿之助が文政13年(1830)生まれです。と言うことは、山南が天保4年(1833)生れなら、山南より4歳年上。自分より4歳年下ということを覚えていて、明治になって書くにあたり、計算したのだろうか。

山南が亡くなった時に、山南が亡くなったことを小島鹿之助は記したのではないだろうかと思うんです。現代には残っていないけれど。その時に享年33と書いたのではないだろうか。そう考えると、『両雄士伝』に書いてあることも信憑性が高くなってくる。
しかし、そこにも故を記すことはできなかったのだろうか。

一方の『尽忠報国勇士姓名録』に記されたものによる天保7年生まれ説も捨てがたい。

やっぱりこれも『偽』の域から抜け出せず。
しかし天保4年説のソースがわかり、とてもすっきりした。
遅すぎるんだよ。私としたことが恥ずかしい限りです(汗)。
by eri-seiran | 2008-01-05 22:15 |  山南敬助

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