山南死後の経過と状況~慶応元年(1865)4月~

4月も今日で終わりと言うことで、毎月、恒例にしている記事がありますので、今日、アップしないと。
先月についてはこちらより
今月は慶応元年(1865)4月の状況と経過です。
3月10日頃に屯所を壬生からに西本願寺に移し、下旬に土方歳三は沖田総司が山南の死にさりげなく触れてある書簡を持って、伊東甲子太郎と斎藤一と共に江戸に向かいました。
3月から4月に替わった時には東海道を江戸に向かって3人で歩いていたと思われます。

4月1日 新選組が公家の久世家の家臣から抗議を受け、松原忠司が対応

壬生の老人たちの間で、親切者は山南、松原と云われていたというまっちゃんです。
神社に向かう途中の久世家の行列に新選組浪士が乱暴を働いたということで、久世家の家臣が西本願寺の新選組の屯所に抗議に来て、それに対応したのがまっちゃんこと松原忠司だったそうです。
まっちゃんは乱暴を働いた隊士は切腹させたと言って、一応、解決はしたようです。

4月4日 土方ら、川崎宿に泊まる

4月5日 土方ら、江戸に到着

まずは試衛館に着いたようです。

4月7日 佐藤彦五郎、井上松五郎らと共に試衛館道場に出向き、土方と会う

6日に、土方が京都から急用で帰ってくること、5日に江戸に着くという連絡が土方の3番目の兄で養子に行った糟谷家から土方の義兄である佐藤彦五郎のところに入ったということなので、佐藤は連絡が入ってすぐに井上源三郎の兄である井上松五郎と一緒に試衛館に向かったのだろう。
そして土方から山南の死に触れた総司の書簡を佐藤に渡し、山南の死について詳しいことを話したのだろう。また京で、元気な頃の山南に逢っている井上松五郎にも。だからこそ、井上松五郎なんか、佐藤彦五郎よりも山南の死を信じられなかったのではないだろうか。
土方が伝えた山南の死に関することは、現代の私たち、或いは当時の一部の幹部以外の新選組隊士の人たちも知らないこと、もしかしたら山南と土方しか知らないことだったかもしれない。だからこそ、佐藤彦五郎初め多摩の人たちも山南の死について殆ど語らなかったのではないだろうか。

同じ4月7日 元治二年を慶応元年に改元

山南は慶応を知らずに亡くなっちゃったわけで。光縁寺にある山南敬助の墓碑には、慶応元年二月二十三日と刻まれています。と言うことで、墓碑は慶応以後に建てられたということになります。
記事を書きながら知ったのですが、元治の後の年号の候補はたくさんあったようで、その中に平成があったそうで。もしその時に平成が選ばれていたら、今は何になっていたのだろう。そして山南の墓碑にも平成と刻まれたのか。

4月8日 土方、佐藤彦五郎が泊まっている宿に出向く

4月9日 土方、佐藤彦五郎が泊まっている宿に出向く
      佐藤彦五郎と井上松五郎と近藤周斎を訪ねる


近藤周斎の所に土方も一緒に行ったのかはよくわからないのですが、どちらにしても山南のことはこの時までに近藤周斎にも伝わっただろう。

4月10日 土方、佐藤彦五郎、井上松五郎ら、馬にて日野に帰ってくる

土方、故郷は約2年2ヶ月ぶりです。

同じ10日頃 新選組新入隊希望者第一陣名簿が作られる

有名どころでは、吉村貫一郎の名前があります。

4月12日 佐藤彦五郎宅に滞在している土方を小野路村の小島政則、橋本才造が訪ねる

この時に近藤勇から託された書幅が小島政則に渡されたと思われます。
小島政則は山南が懇意にしていた小島鹿之助の父親。小島家には京に浪士組として京に上がる前に総司と挨拶に行き、泊まっています。それが政則にとって最後に会った山南でした。ここでも山南の死については佐藤彦五郎に説明したものと同じようにしただろう。

4月13日 小島政則が小島鹿之助と橋本道助宛に土方の様子などを記した書簡を送る

15日まで土方が日野に居るから、会いなさいと言った内容のものだったようです。

4月14日 小島鹿之助、日野の佐藤家を訪ね、土方と会い、一泊する

山南敬助が多摩の人たちの中で一番に懇意にしていたのではないかと思われるのが小島鹿之助です。その小島鹿之助に土方は山南の死を佐藤彦五郎、小島政則らに話したことと同じように話したのであろう。

同じ4月14日 近藤勇、浅野薫らを伴って大坂に下り、阿部十郎が新選組に復帰する

阿部十郎の復帰の話については時間がないので、今回はスルーします。

4月15日 小島鹿之助、日野から小野路村に帰着

4月17日 土方、佐藤彦五郎などが八王子にある神社を参拝する

4月18日 土方、日野を出立して、試衛館に向かう

4月27日 土方歳三、伊東甲子太郎、斎藤一、藤堂平助、新入隊士52名を伴い、江戸を出立する

4月の某日 西本願寺侍臣の西村兼文が旅から帰京する

西村が旅に出ている間に、山南敬助が亡くなり、西本願寺は新選組の屯所となりました。

         (参考文献:新選組日誌 コンパクト版(上) 新人物往来社
                   日野宿叢 第四冊 佐藤彦五郎日記一 日野市)

日が5月1日に替わりそうなので、後半は駆け足でした(汗)。このようなこだわりを持っている記事は書ける時に書いておくものだ。
さて色々と書きましたが、何がキーポイントかと言いますと、わかりますように、土方が山南の死を多摩の人たちにどのように伝えたのだろうかと言うことです。
土方が多摩でいつに誰と会ったかと言うことは小島鹿之助や佐藤彦五郎の記録によるものです。しかし鹿之助や彦五郎の記録に山南の死については全く残っていないから、それが疑問だったりするわけですけれど。
しかし山南が亡くなった理由がどうであれ、土方が多摩の人たちはもちろん、近藤周斎など山南と付き合いがあった人たちに伝えるのはつらかっただろうし、それを聞いた小島鹿之助や佐藤彦五郎たちも驚き、悲しんだはず。
そして現代では伝わっていない山南の死に関することを小島鹿之助や佐藤彦五郎は知っていたのではないだろうか。
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by eri-seiran | 2008-04-30 23:52 |  出来事

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