家定公と篤姫の婚儀が行われた時

徳川家定@堺雅人が庭で鴨と言うべきか、アヒル(家鴨)と言うべきかの鳥を追い掛けるシーンがあることは知っていましたが、『組!』ファンとしては、

鴨が池に逃げ込んでしもうた

という台詞は美味しかったです(笑)。

徳川家定と篤姫の婚儀が行われたのが、安政3年(1856)12月。徳川家定33歳。篤姫(敬子)22歳。
そしてあのお方たちは

山南敬助 24歳(天保7年説の場合21歳)
近藤勇   23歳
土方歳三 22歳
沖田総司 15歳


です。
みんな若い。総司なんか、現代では中学3年生か、高校1年生ですよ。でもこの年、近藤と一緒に総司が調布にて出稽古を行った記録が残っています。さすが天才剣士です。

さて山南敬助がどこにいたかということはとても難しい。こればかりはわかりません。
と言うのは、師であった大久保道場の大久保九郎兵衛が同じ年の3月15日に病にて亡くなっているから。家定公に仕えてきた山南敬助の師は、家定公と篤姫(敬子)の婚礼の前に亡くなったのです。
師が亡くなってから大久保道場を後にしたのか、そのまま残ったのか、わからない。
ただ、試衛館の門人(食客)となったのは、師が亡くなった後だろうと考えるのが自然かな。
もし師が亡くなるまで大久保道場に居たとしたならば、大久保九郎兵衛より3ヶ月前(安政2年12月10日)に亡くなった北辰一刀流の千葉周作の門人にはなれない。

安政3年12月に山南敬助はどこにいたかわからないけれど、江戸にいなかったかもしれないけれど、自分の師が仕えていた徳川家定と篤姫(敬子)の婚儀が行われたことをどこかで知ったのは確かなはず。山南はこの婚儀についてどのように考えていたのだろうか。
そして山南が近藤らと確かに出会っていて、日野での新年の稽古に参加した万延2年(1861)1月まで約4年1ヶ月となり。
すでに近藤らと出会っていたかもしれませんが、もし出会っていなかったら、近藤らと出会う日はそこまで来ていた。篤姫(敬子)の人生が大きく変わる中、山南の人生も変わろうとしていたんだね。
[PR]
by eri-seiran | 2008-05-19 12:17 |  出来事

山南敬助をメインにしたブログです。ホームページ『山南敬助 赤心記』共々よろしくお願い申し上げます。


by eri-seiran
プロフィールを見る
画像一覧