家定公が身罷れた時
2008年 07月 13日
最初、13日の今日が旧暦での命日?と一瞬思ったのですが、勘違いをしており、確認したら1週間前だったというわけで。
今日だったら、それはすごいことだったのに。
そう言えば、1週間前の篤姫紀行が将軍・家定の足跡でした。その時に何故に気づかなかったんだろう。
そして本日、ついに最期を迎えちゃった(涙)。
寂しい最期だったな。
篤姫には会えず、大老に井伊直弼、次の将軍には徳川慶福が決まって、周りは徳川家定@堺雅人の方には目もくれないし。
あの涙が切なくて。
最期について考えると、山南敬助@堺雅人は愛する女性とも最期の別れができ、託した同志らに最期を見届けてもらえて幸せだったな。
安政5年(1858)7月6日に13代将軍徳川家定が死去。享年35でした。発喪は8月8日。
その時、あのお方たちは
山南敬助 26歳(天保7年説の場合23歳)
近藤勇 25歳
土方歳三 24歳
沖田総司 17歳
です。
山南が近藤らと確かに出会っていた万延2年(1861)1月まで約2年半年。だいぶ近づいてきましたよ。
山南は家定公が身罷れたことをどこで知ったのだろう。小野派一刀流の大久保道場にいたか、すでに離れていたか、試衛館と出合っていたかはわかりませんが、家定公の死をどこで知っても色々と思うところがあっただろう。その時、すでに亡くなっていた前の師匠の大久保九郎兵衛のことも思い出しただろう。だって大久保九郎兵衛は徳川家定公に仕えていた人だから。
井伊直弼が大老に就き、日米修好通商条約が調印されたり、徳川慶福が次の将軍に就くことになったり、13代将軍が亡くなり、島津斉彬が亡くなり、凄まじい年です。山南は今後の幕府についてどのように思っていたのだろう。こんな状況の中、自分の今後についても考えられなかったのではないだろうか。まさか第14代将軍の上洛に伴い、京に行くなんて、そしてそれが自分の人生に大きな影響を与えるなんって思ってもいなかったわけで。