家茂公と和宮の婚儀が行われた時

大河ドラマ『篤姫』の第34回は、皇女和宮が京を出立するいくらか前から、将軍家茂公と和宮の婚儀が行なわれた時までの話だったので、これを年月日で言えば、文久元年(1861)10月20日のいくらか前から文久2年(1862)2月11日までとなります。山南敬助らが浪士組として江戸を出立する約1年前です。大河ドラマ『新選組!』では、第6回の後から第8回に入るまでの話し。第7回は文久元年(1861)8月27日の話しで微妙ですが、この回に入ることにしておきましょう。斎藤一を除いた試衛館派のメンバーが集結する『祝四代目襲名』です。この回も好きだな。土方歳三@山本耕史の策に対して自信たっぷりに自分の策を言う山南敬助@堺雅人。そして山南と沖田総司@藤原竜也との立ち合い。この頃は楽しかったな~楽しかった(笑)。

14代将軍家茂公と和宮の婚儀が行なわれた時、天璋院は28歳。
天璋院も28歳かとちょっと驚いたりするわけですけれど。確かに落ち着いてきました。貫禄がでてきました。
一方あのお方たちは

山南敬助 30歳(天保7年説の場合27歳)
近藤勇   29歳
土方歳三 28歳
沖田総司 21歳


です。あら、山南も30代に突入じゃん(笑)。
前回のこのシリーズの記事で述べていますけれど、万延2年(1861)1月14日に、山南敬助は近藤勇と沖田総司ともう一人(名前が不明)の計4人で、日野の佐藤彦五郎宅に泊まりました。これが山南と近藤たちとの関係がわかる最初の記録です。また婚儀が行なわれる約1ヶ月前、詳しくは文久2年(1862)1月19日には、山南は近藤と総司と3人で小野路村の橋本家(土方の親戚)を訪れています。と言うことで、家茂公と和宮との婚儀があった時、山南は、試衛館、また多摩の人たちとすでに付き合いがありました。
だから近藤や土方、小島鹿之助たちは、和宮の降嫁について、また老中の安藤信正を襲った坂下門外の変についての山南の意見が聞けたというわけですよ。議論し合えたというわけですよ。山南がどのような考えだったかはわかりませんけれど。

それから文久元年(1861)8月27日に行なわれた4代目襲名披露。
史実では、襲名披露の野試合に、試衛館派で元々の天然理心流でない山南・永倉・原田・藤堂・斎藤の中では、唯一山南だけが参加しています。と言うことで、他のメンバーは、まだ近藤との出会いがなかったか、参加できるほどの関係ではなかった。
と言うことは、山南は他のメンバーより早く近藤と出会っていた、また近藤と濃い関係だったと言えるわけです。
そして今、気付いたんですけれど、今日は8月27日。これは偶然のなにものでもありません。なんか嬉しい。ちょっとしたくじが当たったような気分。
新暦で考えると10月1日だったので、だいぶ涼しくなって、野試合には良い季候だったはず。
現代の8月27日も8月にしては涼しいですけれど。
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by eri-seiran | 2008-08-27 20:20 |  出来事

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