新聞の広告で、『歴史読本』2009年1月号(新人物往来社)が紹介されていて、特集が日本の暦であり、旧暦の見方、楽しみ方ということで、面白そうだな~と思い、書店にてゲットしてきました。

歴史読本には大河ドラマコーナーもありました。歴史読本は久しぶりにゲットしたというか、これまで1~2度くらいしかゲットしたことがないのですが、大河ドラマコーナーがあることをすっかり忘れていました。1月号には2ページ分の4分の3に今度の日曜日放映分の『篤姫』第48回から最終回までのあらすじといくつかのシーンの写真が小さくカラーで載っていました。第48回ではあの方とのツーショットの写真もあり。残りの4分の1にはクランクアップの記事。夫の家定公こと堺雅人さんのサプライズ登場に、泣き崩れてしゃがみこんで両手で顔を覆っている天璋院ことあおいちゃん。堺さんも同じようにしゃがみ込み、優しい表情で声をかけている写真もあり。
新聞の広告を見なければ、また日本の暦の特集でなければ買わなかったであろう歴史読本1月号。ちょっと得した気分になりました。

さて日本の暦についてですが、読んでいて、旧暦(太陰太陽歴)ってとても大切だよな~と改めて思いました。例えば自然とか、色々な視点からそうだと思えるのですが、歴史の出来事についても言えます。自分が大切にしたきた部分です。
本にも書かれていたのですが、赤穂浪士の討ち入りは12月14日。しかし現代の新暦(太陽暦)で考えると、1月30日になるそうです。討ち入りの日は雪だったと。12月中旬、江戸にて雪か・・・となりますが、1月30日と考えると、雪の降る時季だと納得できる。
関ヶ原の戦いは9月15日だそうです。これは10月21日になるそうで、9月15日だと戦うにはまだ暑そうという感じですが、10月21日だと戦っている時だと暑いかもしれないけれど、生活するうえでは暑さはない時季だ。

山南敬助の死は元治2年(1865)2月23日、これは3月20日になります。
2月23日だと寒いですが、3月20日だとだいぶ暖かくなってきているはず。そこまで春が来ていたのです。
でも桜が咲くには早いんですよ、伊東先生。

そこで山南敬助に関する主な出来事の年月日、新暦で考えた場合の月日を挙げてみたくなりました。

万延2年(1861)1月14日 (2月23日)
新年の稽古のために近藤勇らと共に佐藤彦五郎宅を訪れる。

文久元年(1861)8月27日 (10月1日)
近藤勇の4代目襲名披露の野試合に参加。

文久2年(1862)1月19日 (2月17日)
近藤と総司と共に小野路村を訪れる。

文久3年(1863)1月17日 (3月6日)
総司と共に浪士組参加の挨拶のために小野路村の小島鹿之助宅を訪れる。

文久3年(1863)2月8日 (3月26日)
浪士組として江戸を出立。

文久3年(1863)2月23日 (4月10日)
京に着。

文久3年(1863)8月18日 (9月30日)
禁門の政変のために出動する。

文久3年(1863)9月18日 (10月30日)
芹沢鴨の暗殺。

文久4年(1864)1月27日 (3月5日)
小島鹿之助に年賀状を書く。

文久4年(1864)2月2日 (3月9日)
日野の富沢政恕が壬生の屯所を訪ねたが、山南は病に臥していて逢えず。

元治元年(1864)6月5日 (7月9日)
池田屋事件が起こる。(山南は参加していないけれど)

元治元年(1864)7月19日 (8月20日) 
禁門の変が起こる。(山南は参加していないけれど)

元治2年(1865)2月23日 (3月20日)
死去。享年33。

*( )の月日が新暦で考えた場合です。
*改元のあった年は改元のあった月日まで使われていた年号にしています。
*参考文献:菊地明・伊東成郎・山村竜也編『新選組日誌 コンパクト版 上』(新人物往来社)、釣洋一『江戸幕末和洋暦換算辞典』(新人物往来社)


近藤勇の襲名披露の野試合は8月27日と言えば、暑かっただろうという感じがしますが、10月1日なら、涼しくなっていただろう。
浪士組参加の挨拶に訪れたのは、今で考えると冬から春への時季。京に向けて江戸を出立したのは春。将軍のために働ける、京に行けるという喜びと共に、春という気候が気持ちをさらに高めただろう。そして京に着けば桜。
芹沢鴨の暗殺は秋もだいぶ深まった時季。
池田屋事変は夏。
山南が亡くなったのはそこまで春が来ていた時季。

このようにして考えると、出来事への思いも新たに色々と出てくるのです。
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by eri-seiran | 2008-11-28 18:56 |  出来事

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