近藤勇らが訪れた国泰寺跡
2009年 09月 15日
慶応元年(1865)11月のこと。新選組からは近藤勇、伊東甲子太郎、武田観柳斎、尾形俊太郎、山崎烝、吉村貫一郎、芦屋昇、新井唯雄、服部武雄です。
11月7日に大坂を出立して、16日に広島入り、20日に長州藩との会談を持ったのがここです。
広島城下の国泰寺跡です。
広島城より約1キロほどの所。
国泰寺は毛利家の時代に安国寺として創建され、その後に広島城主になった福島正則が国泰寺に改称し、福島の後に城主となった浅野家の菩提寺となりました。
広島に行くことになり、広島には近藤らが行っているから新選組ゆかりの地があるはずと思い、新選組史跡辞典 西日本編(新人物往来社)で調べたら、唯一、ここが載っていました。
ぜひとも行かなければと思い、場所のチェックをしたら、宿の近くではないですか。
と言うことで朝食前の散歩中に訪れました。
都会の真ん中にこのような緑の地や史跡があるとほっとします。
国泰寺の愛宕池跡です。
ここは原爆投下地よりとても近く、そのために全壊したそうです。
現在、国泰寺は西区に移転しており、この庭園跡だけがこの中区中町7-6に残っているのです。
さて長州藩との会談はうまくいかず、一度、京に帰ってから、翌年の1月に老中の小笠原長行を代表として、新選組は近藤に伊東、尾形、そして篠原泰之進が随行しましたが、これも失敗。
しかし長州藩との交渉失敗だけに終わらず、新選組にも亀裂が生じ始めたのでした。近藤・尾形組と伊東・篠原組に分かれ、現地では別々の行動を取ることが多くなったとか。広島から京に帰るのも別々だったとか。どうもこの時から油小路の変は始まっていたようです。
山南敬助が生きていたら、山南敬助が心身ともに元気であれば、山南敬助の考え方が近藤と土方と同じであれば、尾形ではなく、山南が広島に行っていたかもしれないな。
そして勘定方の河合耆三郎が切腹したのは近藤が広島出張2回目の時のことでした。
なんか大変なことが色々とあった2回目の広島出張だったんだな。