嘉永6年の山南と龍馬

ー昨日の『龍馬伝』のタイトルのクエスチョンマークは6年前の『新選組!』の第12回の「西へ!」のビックリマークを思い出しました。今までの大河ではなかったこと。『新選組!』のビックリマーク自体、それまでには考えられなかったことですけれどね。『組!』は新しい近藤勇や新選組を作り出しました。そこには新しいことへの挑戦があったわけですが、『龍馬伝』もこれまでの枠にははまらない新しい大河、新しい坂本龍馬、新しい幕末の志士たちを作り上げようとしているのかな~と。それが受け入れられるか、受け入れられないか、意見の分かれるところだろうと思います。

さて昨日の『龍馬伝』は龍馬が自分たち下士や武士階級だけでなく農民など国全体のことを考えるていたこと、人と人とのつながり(by 山南先生)を築けるものを持っていたこと、また龍馬が秘めた何かを持っていたということに気付いていた人たちが土佐に居たこと、そして岩崎弥太郎、武市半平太から見た龍馬、龍馬対自分ということが描かれていて良かったと思います。

ところで次回は江戸に向かうということですが、龍馬についてはいつ江戸に行って、いつ土佐に帰って、また再び江戸に行ってとか、京や長崎などにはいつにどれだけ居たのか?など私はよくわかっていません。だって龍馬はあちらこちらに行っているから。今回、ドラマを見ながらそのあたりを勉強したいと思っています。山南絡みで。

龍馬が剣術修行のために初めて江戸に行ったのが嘉永6年(1853)3月で、江戸に着き、北辰一刀流の千葉定吉の道場に入門したのが4月とのこと。龍馬が19歳の時。
同じ頃、後の新選組の副長&総長となる2歳年上の山南敬助も龍馬と同じように江戸で剣術修行をしていました。
『新選組銘々伝 第四巻』(新人物往来社)にて山南敬助について書かれた清水隆氏によると、中山幾之進という方が剣術試合をした相手に署名をしてもらったものが現代に残っているそうです。そこには、

飯田町掘留大久保九郎兵衛門人
        一刀流 山南敬輔


と書かれております。現代に残る唯一の山南の真筆です。
これだけでは一刀流が小野派とはわかりませんが、大久保九郎兵衛が教えた一刀流が小野派であることを明記されたものがあるそうで、山南が書いた一刀流とは小野派一刀流のことになるのです。そして山南が中山幾之進と剣術試合をしたのがいつかということなのですが、清水隆氏によると嘉永6年(1853)4月15日とのこと。と言うことから、坂本龍馬が江戸に来た頃、山南も江戸に居て小野派一刀流を学んでいたことになります。どこかですれ違っていたかもしれないし、後に北辰一刀流つながりで二人は出逢うかもしれないし。
後に歴史に名を残す人たちの中にはまだまだお互いに知らないまま、このようにして江戸で学問や剣術を学んでいた人たち多いだろう。もちろん江戸に行って学びたいけれど行けずに、故郷で過ごした人も居て。幕末のそれぞれの青春だな。この時に得たものが後にパワーとなって幕末を動かすんだよな~と、昨夜の『龍馬』を見ながら思いました。
そして彼らに大きな影響を与えたのがペリーの来航だろう。龍馬が江戸に来て、山南が中山幾之進と剣術の試合をした約2ヶ月後にペリーは浦賀にやって来たのです。そう考えると、龍馬はすごいタイミングで江戸に行ったことになりますね。

幕末を動かす多くの人たちが山南や龍馬と同じようにこの時は20代、10代なんです。
以前に天保は優れた人材の宝庫?というタイトルで記事を挙げたことがあります。これの記事で挙げた幕末の志士たちのペリーが来航した嘉永6年の時の年齢を考えると、
勝海舟が33歳、芹沢鴨が27歳、武市半平太が25歳、吉田松陰が24歳、桂小五郎が山南と同じ21歳、近藤勇が20歳、土方歳三が龍馬と同じ19歳、岡田以蔵と中岡慎太郎が16歳、高杉晋作が15歳、私が挙げた一番若い斎藤一と藤堂平助と伊庭八郎は10歳です。もし年齢に間違いがあったらごめんなさい。
あの岡田以蔵@佐藤健は16歳だったんですか。中岡慎太郎はこの時は何をしていたのだろうか。

そんな彼らですが、歴史の表舞台に登場するのはこれから約10年後。この10年間をそれぞれがどのように過ごしたかにとても関心があります。龍馬についてはわかる部分があっていいですよね。山南についてはここから長いこと空白なんです。現代に残る記録に登場するのは万延二年(1861)の1月ですから。ペリー来航から約8年後ですから。
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by eri-seiran | 2010-01-11 11:26 |  出来事

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