2006年 02月 26日 ( 1 )

山南敬助の死について~新撰組始末記より~

大河ドラマの『新選組!』にも登場して、丁寧に描かれていたと思う西本願寺の寺侍の西村兼文。
その西村兼文が明治になって残した記録『新撰組始末記』には、山南は西本願寺への移転に反対して、一書を残して自刃した、と書かれています。それも三月下旬に。

また2月下旬の記録に、土方らが屯所移転のために、西本願寺と交渉を開始したことも書かれてあります。

山南が亡くなった、また土方らが屯所移転の交渉に入ったこの時期、西村兼文は西国を旅行中で京に居なかったと言われています。

西村兼文の記録により、山南の切腹の理由として、西本願寺への移転に反対したが、山南の意見を近藤が取り入れてもらえなかったからとも言われています。反対に、山南が亡くなった後に、西本願寺との交渉が本格的に始まったために、西本願寺の移転が山南敬助の死の直接の理由とは考えられないとも言われています。

私的には西本願寺への移転が死の理由ではないと思っています。
しかし山南が死ぬ前に新選組の内部では移転先の候補として、西本願寺の話はあったのではないかと思います。いくつかの候補があって、検討されて、西本願寺が第一候補として上がり、交渉に入ったのではないだろうか?そこにはいくらかの日数が必要でしょう。西本願寺が候補の一つとして入っていた時、山南は生きていたのではないだろうか。
ただ山南がそのことを知っていたか、また知っていても議論できる立場にあったのか?ということになると、その立場には居なかったのではないかというのが、私的な考えです。
以前から度々書いていますが、私は長期間の静養にあったと思っているからです。

そして西村兼文は、山南について直接は知らなかっただろう。後に西本願寺に移転してきた新選組の隊士から山南のことについて聞いたのではないだろうか、だから二月下旬に亡くなったのに三月下旬という誤記をしたのではないだろうかと思っています。

自刃は、切腹という意味に捉えられます。しかし自殺という意味にも捉えられます。そして脱走という言葉は出てきません。
先日の記事、山南敬助の死について~子母澤寛の本より~で、『新選組始末記』で、敢えて自殺説を書いているのは、八木翁、或いは壬生界隈のご老人方にそう聞かれたのではないのでしょうか、と述べました。しかしひとつ見落としがありました。そうです。この西村兼文の『新撰組始末記』のことを忘れていました。西村兼文のこの記録を読んで、子母澤寛が自害説を挙げた可能性はあります。

とにかく西村兼文は、西本願寺に移ってきた新選組隊士のことをあまりよく思っていなかったらしいです。そのために、西本願寺に移転してくる前に亡くなった山南敬助について、移転に反対し、自害した良い方という書き方をした可能性も無きにしもあらずというわけです。
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by eri-seiran | 2006-02-26 21:06 |  本

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