2006年 03月 26日 ( 1 )

会津藩の御預かりとなった山南敬助らの経過と状況~文久3年3月下旬~

文久3年(1863年)の3月下旬の山南敬助らに関する主な出来事と状況などについて、「新選組日誌 コンパクト版 上」(新人物往来社)を参考にしながら、整理したいと思います。

3月22日 老中板倉勝静に連名で建白書を提出。

18人連名、または24人連名と言われていますが、18人だった説が有力のようです。試衛館派の9名+芹沢派の5名(会津系)、他には根岸、佐伯らの4名。

3月25日 会津藩士の本多四郎が壬生を訪れて、山南たち壬生浪士と一緒に壬生狂言を見物。

一緒に見物したのは、会津系(試衛館派+芹沢派)と、粕谷、佐伯、阿比留(病気で、近々両親のいる江戸に帰ることになっているとのこと)という記録が残っています。この17名は、3月10日に会津藩に嘆願書を提出したメンバーと同じであり、このような状況から会津系と殿内などの鵜殿系との対立が伺われるとのことです。

そして同日の夜、四条橋で殿内義雄が殺害される。

つまりこの3月25日の出来事は、大河ドラマ第17回の『はじまりの死』の分です。
目的がはっきりしないものの、殿内は何処かに旅立とうとしていたらしい。会津系(試衛館派+芹沢派)とは、一緒にやっていけないと思って去ろうとしたのか?自分たちの仲間を集めるために出掛けようとしたのか、わからないらしい。
しかしこの殿内の死を始まりとして、家里も殺害され、根岸らも去り、また粕谷も去り、まさしく試衛館派と芹沢派の浪士組になっていったというわけです。

3月26日 近藤、『志大略相認書』という書簡を近藤周斎・佐藤彦五郎・小島鹿之助ら15人連名宛てに記し、剣術道具の送達を依頼する。

『志大略相認書』は、3月に起きた出来事や自分らのことを近藤が書いた書簡です。そしてこの剣術道具の依頼は、誰の剣術道具を依頼したかということがここのポイントです。
近藤勇・土方歳三・井上源三郎・山南敬介(残っている記録ではこの漢字を使用)・沖田総司・永倉新八の6名分です。
近藤・沖田・山南は当然ということになります。だからこそ、『新選組日誌』の解説でもこの3人には触れていません。山南の剣術道具が試衛館に置いてあるというのは、当然のことというわけですよ。そこで疑問が湧いてくるのが、永倉の名前があり、左之助と平助の名前がないということですよ。つまり、永倉の剣術道具が置かれていることから、永倉は左之助や平助より、試衛館と密接な関係にあったのではないかとのことです。と言うことは、山南はこれらのメンバーより試衛館とさらに密接な関係にあったということです。そんなこと、わかっていますけれどね~
また土方と井上ですが、この二人の分は日野の実家、または日野の道場より送らせたのではないかと、解説されています。
つまり結果を申しますと、試衛館に剣術道具を置いてあったのは、近藤・沖田・永倉、そして山南の4人だろうということですよ。

そして何故、剣術道具が必要になったかという点については、道場の建築が決まったためとのことです。これについては、後日の近藤の書簡に書かれており、また『新選組遺聞』でも八木為三郎の談話として、書かれています。

最後に剣術道具の送達の依頼から判ることがあります。
山南の剣術道具の送達を依頼しているということは、山南が剣術の練習ができるということ、つまり山南が元気だったというわけです。この時期、元気だったことはわかっていることですが、きちんと証明できるものとして利用させて頂きました。
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by eri-seiran | 2006-03-26 21:15 |  出来事

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