日本の歴史が好きで、一番興味ある時代はもちろん幕末、その次が織豊(安土桃山)時代でございます。その時代で一番好きな武士は伊達政宗公。そうです!山南敬助は私の好きな伊達政宗が築いた仙台藩に生まれ、後に脱藩したと言われております。
永倉新八、山南と親交があった多摩の小島鹿之助、会津藩士、西本願寺の寺侍の西村兼文など様々な方たちが山南は仙台藩であったことを記しており、違う出身地を書いている記録はひとつもないのです。
と言うことは、これは本人が「自分は仙台藩であった」と周りに言っていたわけですよ。
しかしですよ、これがまた謎なんですよ。
なんでこれが謎になってしまうんでしょう?
山南は武士階級の出身であったと言われています。しかし今でも残っている仙台藩の当時の武士の名簿に山南という名前が残っていないらしいのです。
それに類似した名前も・・・そんなことから仙台藩出身にも疑問が・・・
ここからは私の勝手な考察であることをご了承ください。
もし仙台藩出身でなかったら、どこの出身だったのか?
東北の他藩の出身だったのでは?と言うのは、山南に東北訛りがあったのだろうと思うのです。東北弁についてはよくわからないのですが、同じ関西弁でも大阪、京都、兵庫・・・それぞれでやはり違うらしい。関西に長いこと住んでいますが、九州出身の私にはあまりよくわかりません。東北訛りがあり、仙台藩と言えば、江戸や京都の方は信用したでしょう。
そしたら何故、他藩の出身でありながら仙台藩出身と言ったのでしょう?
本当の出身地を隠さなければならない事情があったからではないか?あるいは、東北の小藩であったので、「そこはどこですか?」と、聞かれるのが嫌で、62万石の仙台藩にしたとか・・・
山南姓は「難読奇姓辞典」に収録されているらしい。やまなみ、さんなんという読み方の他に、やまなんもあるらしい。
実は私の姓もとても珍しいと言われます。初めて会う方に姓を言う時、なかなか1回ではわかってもらえないことが多く、漢字を一字ずつ説明して、やっと分かってもらえる状況です。しかし九州の生まれ育った町に帰れば、まったく珍しい姓ではなく、1回でわかってもらえます。同じ姓の人があちらこちらにいます(笑)
同じように東北のどこかに、山南という姓が多い地域があるのではないかと考えてもみたりするのですが、ないですがね~どなたか、ご存知ないですか?
後、山南が小さい頃に家族で仙台を脱藩したということも考えられるのでは?あるいは山南が生まれた頃、天保の大飢饉が東北を襲っています。その影響はなかったのだろうか?
もう考え出したら、きりがありません。
十分な考察とは全く言えませんが、とにかくここまで山南敬助の出身地の謎について書いてみました。しかし出身地が違う記録が残っているわけでもないし、本人が仙台藩出身と言っていたようですから、本人の言うとおりに仙台藩出身ということにしておきたいと思います(汗)
土方が北上して仙台藩に辿り着いた時、山南の身内を尋ねなかったのか?と言いたいところですが、その時の土方にそんな余裕は全くないよな~ごめんなさい。
次に脱藩説です。山南敬助は次男として生まれたと言われています。ご存知の通り、基本的には長男が家督を継ぐので、この時代の次男、三男は大変だったでしょうね。試衛館派のメンバーで元々長男だったと言われているのは、沖田と左之助。藤堂については、伊勢津藩和泉守の落胤と言われており、それ以外のことについては不明。後の近藤、土方、斎藤、永倉、井上、そして山南の6人については次男、三男だったわけです。
山南は温厚で穏やかな性格であった反面、間違っていることや筋道の通らないことに対しては、物を申す、断固とした態度を取る、一本気で、熱くもなるという性格だったらしい。山南の性格を伝える逸話についてはまた次回に。この山南の性格ですが、長所とみれば真面目、短所とみれば短気というわけです。
ここからは山南が仙台出身であったとして、何故脱藩をしたのか、私の勝手な想像です。
山南は博学、知識人で自分のポリシーを持っていた。剣も強かった。江戸でさらに学び、剣を磨きたいと思い、脱藩したのでは・・・
或いは自分のポリシーを持っていました。藩の中で筋道の通らないことがあって、山南の短所の部分が出てしまい、目上の人とやり合ってしまった。もうこんなところ居られるか、次男だから家督を継がなくてもいいし、もうここから出てしまおう!江戸に行こう!
後は何かの悲劇で家族を失ったとか・・・
これも脱藩の理由が記録として残っていないので、確定できるものは何もありません(汗)
結局、私ごときものが必死で考えても山南の謎は解けません。当然のことです。
確定できる資料が出てこない限り、仙台藩の生まれで後に脱藩、そして武士階級で次男坊だったということです(汗)
以上、山南敬助のプロフィール 第二章でした。